jukan's diary

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2012.01.03 Tue 黒船来航と対抗した日本の官僚達 その2

前回は、黒船来航前の幕府の置かれている情勢と歴史に最登場する真田についてを書きました。

真田幸貫が幕政に登場し彼の登用した人材や制度が国を変えていくことになります。特に外国の情報収集と西洋の学問を研究させる方針はその後の日本にどれだけ大きな影響を与えたことでしょう。松代藩で問題を起こし閉門されていた英才・佐久間象山を幕政のブレーンに抜擢したあたりが彼の見識の高さが伺われます。象山は活文禅師から受け継いだ思想を推し進め吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬に大きな影響を与えていきました。象山がこのように活躍できたのも老中・真田幸貫の後ろ盾があったればこそです。

さて1853年ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀にやってきます。いわゆる黒船来航ですが、多くの人が突然黒船がやってきて大騒ぎになったみたいな歴史観を持っていますが事実は全然違っていて、当時の幕府は事前に来るのがペリーで、彼が何の目的で来たのかも、もっと言えば彼らがどんなやり方で開国を迫ってくるかといった様な方法まで知っていた事は教科書には出て来ません。この時代、日本沿岸を外国船が日常的に航行していたので黒船自体はそんなに珍しい事ではなかったのです。では何で黒船来航が重要なのかというと、ペリーは日本を開国させるという目的を持って来たことです。幕府はオランダからその辺の情報をかなり正確に伝えられて知っているんです。当時の幕府のほうが今の民主党政府より情報戦でははるかに優れていたのです。幕府が恐れたことは西洋列強が力をもって植民地化するやり方でした。隣国・清はイギリスによって植民地化され結果アヘン戦争が起こるなどを正確に把握していた幕府はペリーによって国家存亡の危機がいよいよやってきたと認識していたのでペリーの来航が重要な事なのです。

ペリーは日本に物資の補給・港の開港・貿易の開放を要求しました。これに対し幕府は交渉の全権として林大学守を送ります。この林大学は政府高官ではなく学者です。なぜ交渉役にキャリア高官でない学者を送ったのか?それは上記のような西洋事情に詳しく西洋列強の方法論等を熟知した学者の方が間違いのない交渉ができると幕政中心が思ったのだと思います。私見ですが当時の老中たちが政策を決める過程で情報及び情勢分析で林のような学者に意見を求めていたのは必然で中でも林大学の見識等を認めての全権任命であったと思います。また交渉に失敗したとしても交渉役が幕政の中核を担う人物でなく学者であることで言い訳が出来る体制を考えていたからではないでしょうか?

さて林はペリーと交渉をする訳ですが、その対応は見事としか言えない内容です。ペリーは高圧的に威嚇して交渉してきますが林はペリーの要求をことごとく論破しペリーは林に譲歩せずにいられない状況に追い込みます。結局交渉は人道的な物資の補給・港の一部開港にとどまり貿易はしないということでまとまります。これがいわゆる日米和親条約です。この段階で日本は開国はしていませんのでペリーは失敗したとも言えます。ペリーは日本をナメてかかって返り討ちにあったみたいなものです。西洋人はアジア人より優れた民族であるという考えが支配していた時代ですし、事実それまでの国を植民地化してきた歴史からもそう考えていたんでしょうね。ところが日本には当てはまらないどころか逆に言いくるめられてしまったわけですからね。ペリーは後日日本恐るべしと語っていることでもわかります。どうも黒船来航 日本開国 不平等条約みたいな認識があるんですが、事実はならず者を返り討ちにしたってのが事実であて当時の幕府の外交能力の高さはすごいの一言です。

このような事件があって日本は国内問題に加えて外交問題が最重要課題となります。日本の国力と西洋列強の国力を考えた場合どう考えても侵略・植民地化は避けられない状況なんですが、当時は神国日本は神が守っているたとえ外国が攻めてきたとしても神風が吹き日本は負けないなどという非現実論が通用していた時代です。この時冷静に事態を分析していた人たちが、幕政中心にいた水野忠邦・阿部正弘・真田幸貫(信州松代藩主)・松平忠固(信州上田藩主)です。特に安政の改革を主導した阿部正弘・松平忠固らの老中は首座の阿部がまだ25歳であった事もあり非常に進歩的かつ柔軟な考えを持っていたのだと思います。彼らの功績は今までの幕府では考えられないような人事の刷新を断行したことにあります。勝海舟・永井尚志・高島秋帆・大久保忠寛・ジョン万次郎といった英才を積極的に登用します。私が特に重要な事だったと思うのは岩瀬忠震を異例中の異例の人事で幕府目付に登用した事でしょう。岩瀬はこの人事によって近代国家へ変革するための骨格を作っていきます。岩瀬が作ったものを書くと審書調所(外務省と内閣調査室と防衛省調査機関の合体したようなもの)・講武所(後の日本陸軍)・長崎海軍伝習所(後の日本海軍)・品川砲台築造などです。どうも明治維新は薩長が全て行ったように思っている人が多いのですが、この時点での権力中枢は幕府老中たちです。彼らは列強に対して国家存亡の危機に立たされていたのです。一歩間違えば植民地にされる危機を針の穴を通すような方法で渡っていかなければなりませんでした。

そんな岩瀬に人生最大の大任が任されます。それはアメリカ全権領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスに突きつけられた通商交渉においての日本側全権として交渉役の任命でした。ハリスはもともと商人ですから通商が疲弊した日本財政にとって有益であると通商を強行に主張します(まぁ開国しろってことですな)当然岩瀬はこのままでは立ちゆかない日本で有ることは十分理解していましたが、一歩間違えば清国を初めてする列強による植民地化の危機もある。しかしここで開国に踏み切ってしまえば当時大勢を占めていた攘夷派の反発を買い内戦の危機もあるという難しい状況の中で不可能と思われた今でいうソフトランディングを試みます。多くの港を開港するように迫るハリス特に経済の中心地である大阪開港を強く要求します。これに対し岩瀬はぎりぎりの交渉を行なっていきます。無条件に開国するのは国論を分ける事になり結果 外国人に対して攘夷派が排除行動に出るのは必死である もし条約締結後に国内で外国人が殺されるようなことが頻発すれば列強に攻撃されてしまう口実を作ることになりいずれは植民地への道に行き着く危険 もう一方ここで交渉を拒否すれば産業も資産もないこの国はいずれ立ち行かなくなり結果やはり植民地への危機がある ここで岩瀬がやったことは歴史的大偉業だと私は思っているんですが・・・・それは当時ただの寒村だった横浜開港です。簡単にいえば横浜を第ニの長崎の出島にしようということです。あくまでも国内において自由に外国商人が通商を行えないように 商業中心地の大阪を開港すれば幕府の目が届かないことや攘夷派の過激の行動のこともあり幕府の管理ができる横浜を開港して管理しようというものです。ハリスはそれでも大阪開港にこだわりますが岩瀬は攘夷派の存在を気にかけ大阪開港はかたくなに拒否します。しかし代案としてこれも寒村であった兵庫(神戸)を開港するというハリスに花を持たせる譲歩案を出します。この辺の岩瀬の対応は見事としか言えませんね。

長崎出島的な開港で外国人を一定の地域に留めることであるならば攘夷派の反発も抑制できるギリギリの選択であると私も思います。現在・不平等条約とされる領事裁判権がなかった事も岩瀬の考えでは、一定地域に限って(岩瀬は横浜に運河を掘り、川と運河で長崎出島のように分離した)居留するものだけに適応するのが前提なら国内に不利益がないと考えたのは当然です。また関税自主権がないことも問題視されますが岩瀬とハリスの交渉では関税率は20%で当時の世界では妥当な関税率であることも追記しておきます。

結局ハリスは岩瀬の案を受け入れることになりますが、最後の最後に攘夷派の画策によって孝明天皇の通商の条約締結の勅許がおりずが通商を拒否したことから交渉は頓挫します。この時国外でアロー号事件が勃発 ハリスはイギリス・フランスが日本を侵略する可能性を指摘し友好国アメリカとの条約締結を迫ります。事実その可能性が非常に高かったため岩瀬は独断でこの条約に調印します。条約の条件に岩瀬はハリスに対して、もしイギリス・フランスが日本を侵略しようとした場合アメリカが日本を助けることを確約させています。これが私達が歴史で学んだ日米修好通商条約(不平等条約)の真相です。この後岩瀬は攘夷派の台頭 老中・阿部正弘から引き続き開国派老中となっていた堀田正睦が大老となった井伊直弼によって失脚すると天皇の勅許なしに条約に調印した責任を追求され蟄居 岩瀬は失意のうち44歳で病死します。

この時幕政の中核にいた阿部正弘・堀田正睦・松平忠固そのブレーン岩瀬忠震・佐久間象山・勝海舟・ジョン万次郎たちが近代日本の骨格を作ったのです。特に岩瀬忠震はもっともっと評価されても良い人物なんじゃないかと思っています。講武所は維新後鎮台となりのち日本帝国陸軍となっていきます。長崎海軍伝習所は赤堀小三郎(上田藩士)・勝海舟らを輩出しのち坂本龍馬とつながり最後には日本海軍となります。

さてここまでのサックリしたまとめですが、次のようなものです

1・1700年代徳川政権が疲弊して国内が混乱し始める

2・危機感をもった幕府は改革を断行していく 享保の改革・寛政の改革・天保の改革

3・信濃国の松代藩藩主・真田幸貫が老中に抜擢され 有用な人材を登用・洋学教育研究に尽力

4・真田旧領の信濃国上田藩藩主・松平忠固が老中に就任 穏健な開国に向けて政権運営

5・上記の老中の方針で目付・岩瀬忠震らが近代国家の骨格を形成する

6・日米和親条約締結(この時点で開国はしていない ペリーの負け)

7・日米修好通商条約締結(植民地化されないためのギリギリの選択)

アジアで植民地にならなかった国は日本だけです。圧倒的武力と経済力を持っている西洋列強に対し何もなかった当時の日本でただひとつ持っていたのは高い教養と不屈の精神をもった人間でした。私たちはそういう民族なんだと過去の歴史から学ぶことができた事は私にとっても大きなものでした。

また国家存亡の危機が訪れた時またしても忽然と現れた真田や上田藩 歴史の表舞台には出てこないけど信州上田地方に関わる人は国家の大事には必ず最初の道筋をつけるために登場してくるのは不思議ですね。平安時代末期には木曾義仲(現在の上田市丸子地区で挙兵)戦国時代の真田 幕末期の真田や上田藩 維新後の製糸業主導などこの地方は深く関わって来ていることは新しい発見であり興味がつかないところです。

その後、明治維新に至り維新30数年で世界の列強の仲間入りをすることになるのですが、その辺の事はまたおいおい書いてみようと思っています。

2012.01.03 Tue 黒船来航 なんで日本は植民地にならなかったのか?その時真田は?その1

 

 

前に真田は徳川の天敵なんじゃないかと書いた。戦国時代無敵の徳川を2度にわたり退けた真田。現在の戦国武将ランキングで堂々の1位に輝く真田幸村は大坂冬の陣では徳川軍重大な損害を与え、夏の陣では家康本陣まで攻め込み家康は自害を覚悟したほどの強者なのは有名です。

真田家はこれで本来滅亡してもおかしくないんですが、幸村の兄の嫡男信幸(後に信之に改名)は家康の娘(重臣本多忠勝の娘・小松姫を養女にした)を妻とし徳川軍についていたため真田は存続することになる。戦後旧領上田を納めたが後に信濃松代藩(現在の長野市松代)に移封された。真田は本来は外様大名であるのだが上記の事から扱いは譜代大名として幕末まで真田家は存続する事になる。

さて、その真田家からまた明治維新に繋がる流れが始まったんじゃないか?ってことも前に書きましたが繰り返すと、松代藩士の子として生まれた活文禅師という大天才僧侶が出てくる。彼の薫陶を受けた佐久間象山や赤松小三郎が維新の流れを作っていった 考えればまたも真田が徳川の天敵となって結果徳川の支配は終わったんじゃないか?って話です。

昨年、いろいろ場文献を読んでいて新たなことを知るにつけ話はもっと大きな世界の中で動いていたんじゃないかと考えるようになりました。今回はその辺の所を追記したいと思います。

幕末期に決定的な出来事はペリーの黒船来航ですが、その時期前後で真田はどうなっていたんだって事を調べていていたら面白いことを発見しました。

時代は天保(1830年)の頃です。天保の大飢饉 百姓一揆の多発 大塩平八郎の乱といった混乱の時代 国外では列強によるアジア進出で阿片戦争が起こるなど幕府を揺るがす事件が多発していました。幕府は財政の再興をのため改革に乗り出しましたこれが天保の改革です。老中首座の水野忠邦は徹底した緊縮財政を断行し諸藩も藩政改革が実施され諸藩は自立的藩財政を運営するに至ります。要するに各藩は自分で藩財政を運営し自給自足しろってことですね。これにより長州や薩摩はヨーロッパで言う公国的な存在となります。当然自給自足で藩を運営するのですから幕府の影響力は低下していったでしょうね。

そんな時代に松代藩主・真田幸貫は老中首座・水野忠邦に補されて幕政の中心 老中となりました。全ての始まりはこの辺なのかも知れません。幸貫は希代の名君であり見識が高かった人物で混乱した幕府にあって改革を断行しようとした水野にとって必要な人物であったことが外様大名である幸貫を異例の老中に抜擢したことでも判ります。

幸貫はその見識から藩政改革を行い殖産興業・産業開発や文武奨励し文武学校開設したり佐久間象山をはじめとする有用な人材を数多く登用して洋学や海外情報研究に当たらせ藩政改革を成功させます。この流れは次期藩主・真田幸教以下松代藩全体に引き継がれていきます。1857年ペリーが浦賀に来航した際 幸教は横浜警備や江戸湾警備といった外交最前線の一翼を担います。

もうひとつ当時真田の旧領である上田藩の藩主・松平忠固は老中首座・阿部正弘に補されこれまた老中に抜擢されています。忠固は攘夷派水戸学の徳川斉昭が海防参与になることを激しく反対しています。理由は行政を一任されている幕府が朝廷の意向を聞くなんて(攘夷派)ことは幕府の統治能力の無さを内外に印象づけるだけというものです。このことから忠固は現実主義の開国派であることが伺えます。事実この時の幕政を行った老中たちは、その後の日本にものすごい遺産を残すことになります。

さて日本にとって正念場といえる時代の中核にいた人々は一体何を行ったのでしょうか?私たちは明治維新の歴史を知ってはいますが、よく考えればそれらの歴史は徳川幕府を崩壊させた薩摩や長州の人々によって書かれたものです。この時点で日本の政策の中心は幕府にあって決定権は老中たちが決定していたことを忘れてはなりません。すこしずつわかってきた当時の幕府の中枢のエリートたちが行ったことをもう一度考えてみようとこれを書いているのですが、何分にも長文になってしまうため回を改めて続きを書いていこうと思います。

 

 

2011.06.13 Mon blogを書く気にならなかった一年

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期間にして約一年半、人生を左右するような出来事が次々に重なり、正直blogを書く気にもなりませんでした。

オレは基本的にあまり人が言う事は気にならない性格ですが、信頼していた人間が実は底の浅い自分勝手な小悪党であることが判り、少々人間不信に陥ったことが主な原因です。そいつは仕事でも深い関係であったためオレがまっとうにこれからの人生を送るためには全てをリセットする必要がありその事で常に頭の中がいっぱいいっぱい状態で正直blogどころではなかった。まぁそんな内容こそblogのネタになりそうなのだが、書き出したら性格上思っていることを全て書いてしまうことになるだろう。そうしたらきっと大変な事態になるだろうと思い書くことは止めました。もう少し本音を云えば、思い出したくもない事を書くことによって思い出すことになる恐怖が本心なのかもしれません。

さて、ここ数ヶ月だんだん環境が変わってきて気持ちも大分落ち着いてきたのでそろそろ何かを始めなきゃなぁと思えるようになってきたので気の向いた時はまたblogでもやってみようと思っています。

今年は3月11日の大震災で日本が戦後初めて本当の国難に直面した訳ですが、震災直後、今まで世界各国の災害に救援活動を行っていた我が国が世界中から援助を受ける立場に変わったときオレは「ありがとう」と思う反面「おまえらの助けは必要じゃないんだよ」って気持ちも正直強くあった。だって日本は災害については世界でトップの実力と経験があるんだからね しかし しかしその後ネットで流れた世界中からの日本への応援と祈りを受け取るにあたり、そういうオレの自惚れた考えを根底からひっくり返された思いでした。もうオレ達は自分の国だけで生きているんじゃないと実感しました。情報が世界中を繋げている現在は日本人だの何人だのは関係なく地球人って感覚にならなきゃいけないと強く思いましたね。

今までは祈りなんて個人的なものだと思っていたんですが、今回の経験で人の祈りや思いってのは恐ろしいほどのパワーを持ちうるって事を実感するにあたり、今までの自分自身の概念を改めて考え直そうと思います。

人が変わる事ができるチャンスは不幸に直面した時しかありません。オレ自身も日本の国も変われるチャンスなのかもしれないと思う毎日です。

 

2010.04.12 Mon 幕末もう一人の主役

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幕末の話をもう少しって事で個人的に思っている事を書いてみようと思います。

オレは幕末の重要人物の一人はジョン万次郎だと思っていて、教科書に載っていない秘密の働きをしていたと思っている。ジョン万次郎は土佐生まれの漁師で14歳の時海で遭難し、太平洋の孤島・鳥島に漂着。143日間の無人島生活の後、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって救助された後ハワイに渡りホイットフィールド船長にかわいがられ共に船長の故郷であるフェアヘーブンへ渡ったのち船長の養子となる。大変利発だったため船長の薦めで学校通い(オックスフォード)英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。(成績は主席だった)この頃万次郎はリンカーンにも会っています 21歳で一等航海士・副船長となり捕鯨船に乗り込みました。しかし日本への帰国の夢を諦めきれずに当時ゴールドラッシュのカリフォルニアの金山で働き資金を作って1951年薩摩藩領の沖縄に帰国しました。

帰国した万次郎は、幕末四賢侯のひとり薩摩藩主 島津斉彬から直接海外事情などを聴かれています。その後、長崎で長崎奉行に長期にわたり尋問を受けた後 故郷土佐に戻り再度 これまた四賢侯のひとり土佐藩主 山内容堂や土佐藩参政の吉田東洋といった土佐藩の重臣にも長期にわたり尋問されています。土佐では絵師の河田小龍宅に寄宿し河田は万次郎の話を漂巽紀略という本にまとめています。坂本竜馬はこの漂巽紀略を読んで大志を持ったといわれています。

その後万次郎は幕府からの要請で旗本直参となり幕府の藩校で教鞭を執りながら通訳・翻訳等の仕事をしました。1860年幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込み日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに再度渡ります。この時勝海舟 福沢諭吉といった人たちも咸臨丸に乗っています。勝海舟は咸臨丸の船長でしたが船酔いが酷く勝に変わって万次郎が船長やっていたみたいです。その後 薩摩藩開成所教授に赴任。航海、造船、測量、英語を教え長崎に出張し、薩摩藩の船を購入したりしています。1866年39歳の時には土佐藩主 山内容堂の依頼により後藤象二郎等と藩校「開成館」の設立を手伝ったり後藤象二郎などと上海に渡り土佐藩船夕顔号などを購入したりもしています。維新後の明治2年に開成校(東京大学)の教授になり普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されたりもしています。ヨーロッパから帰国後軽い脳溢血を起こしたのをきっかけに静かな暮らしを続けますが、明治31年71歳の時再度脳溢血となり死亡しました。

ジョン万次郎の一生をかいつまんで書きましたが、彼の話しを聞いた人々とその時期を見ていくとちょっと面白いんですね。まず帰国した時に薩摩藩主の島津斉彬 長崎奉行所で取り調べられていた時期に吉田松陰が長崎に勉強に来ていた。土佐では藩主 山内容堂  特に参政の吉田東洋は2ヶ月の長期に渡って尋問していますし、その尋問の際に東洋の甥である後藤象二郎少年が同席していたという事です その後江戸で勝海舟 福沢諭吉 と共にアメリカに渡ったり 土佐藩校「教授館」の教授となり吉田東洋の門弟であった甥 後藤象二郎、郷士ながら才能があった後の三菱商事総帥 岩崎弥太郎等を直接指導したりしています。そのご上海で後藤と共に購入した夕顔号は、坂本竜馬が大政奉還に繋がる船中八策を書いた船だったりもするわけです。

また、万次郎を助けたアメリカのホイットフィールド船長の親友はルーズベルト大統領の祖父のワレン・ディラノであったりするところを考えると政治的にもかなりの実力者だったと考えられます。当時アメリカは中国への進出を考えていて、その足がかりとして日本を利用しようと思っていたことは事実(捕鯨時の補給は表向きの理由)ですし、その辺の画策は当時中国の足がかりとなっていた上海で盛んに行われていたのでしょう。当時上海は情報交換の場所であったろうと思います。当然長崎の外国商クラバーもそのメンバーだったと考えれば、東アジアで最後に残された手つかずの国家日本に利権を求めた結果だとも思えます。坂本竜馬も3ヶ月とか半年とか行方不明になっている時期がありますが、上海なんかで話し合っていたのかもしれません。特に大政奉還に向かうあたりの坂本竜馬と後藤象二郎の思想は欧米の憲法を基本としていますし、万次郎が仲立ちに入っているような気がしています。欧米的な考え方と日本の考えをうまくすり合わせて日本の将来を設計する仕事を万次郎は秘密裏にやっていたんじゃないかと思えて仕方がないんです。もしかしたらペリー来航からアメリカのデザインされた戦略だったのかも?と思えなくもありません。とするならば万次郎は ペリーやグラバーといった東インド会社関連が日本や中国で商売をする上でのマネージャーで坂本竜馬はその営業マンみたいなものだったのかもしれません。東インド会社の相手は、あくまでも日本を動かすだけの実力を持った人々 薩摩藩の島津斉彬や土佐の山内容堂といった人たちです。徳川幕府でフランスと手を結んで対抗しようとした幕臣達が薩長土の維新軍と実力で互角以上であっても戦えなかったのは、勝海舟等が万次郎によってアメリカに懐柔されていたからかもしれません 

維新後の明治も中頃を過ぎると坂本竜馬は高知県以外では、ほぼ忘れ去られた事実などを考えると、表舞台に立たずにひっそりと暮らしている万次郎みたいな人が案外にウラでとんでも無いことをやっていたりするのかもしれません。もしそれが事実だとしてもその後日本が植民地にならなかったのは、日本人の教育水準が彼らが思っているより数段高かった事や天皇に対する国民の意識が彼らの想像を超えたものであった事などがあったと思います。当時の日本の外国との交渉を見てみると今とは全く違い非常に高い意識とプライドをもって交渉に当たっています。現在の政治家先生たちは見習って欲しいと思いますね。

2010.04.09 Fri 坂本竜馬が大ブレイク

活文禅師が多聞塾を開いた龍洞院(上田市)

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NHK大河ドラマ「龍馬伝」が異常に盛り上がっている 。長引く不況や製造業の斜陽で新たなビジョンを求めている現在の日本だからこそ志を求められている。志と言えばやはり明治維新 維新の立役者と言えばやはり坂本龍馬でしょうね。やっぱり革命って何時でも心が熱くなるもんです。

幕末は今から150年ほど前の出来事ですが、すでに近代ですので写真等の資料も多く残っていて調べればかなり詳細な事まで分かります。150年て昔の事の様に思うかもしれませんが、現在40歳台前半の人が生まれた時で丁度100年 80歳の人なら60年前の出来事だからそんなに昔じゃないんですね。

オレの祖母は明治33年生まれの人で98歳まで生きていたから、子供の頃よく幕末の話をしてくれました。この祖母かなりの資産家の家に生まれ、お嬢様育ちで歴史好きだったので 彼女が子供の頃に実際に維新の中を生きていた人から実際の話を数多く聞いていて、その話なんかをオレに話聴かせてくれました。そんな訳で自然とオレもその辺の話は本で読むより生々しく感じているんで、龍馬伝かなり真剣に観てます。そんな幕末時代あまり知られていないの事などをBlogに書いてみようと思います。

 

さて幕末と言えば、坂本竜馬を筆頭に桂小五郎 西郷隆盛 勝海舟 等歴史に燦然と輝く人の名前が浮かんで来ますが、活文禅師という僧侶を知っている人は少ないと思います。活文禅師は維新の約90年ほど前、信州松代藩の武家の次男として1774年に生まれます。江戸 長崎に学び和漢蘭の三分野に精通していて、中国語(清国語)、蘭学(天文学)、詩歌、書、彫刻、一弦琴など多種多様な学問を学びました。一説に中国に行って学んだとも言われています。とにかく大天才で日本のレオナルドダビンチみたいな人です。この活文禅師 出家して僧侶となり信州上田の龍洞院という寺の住職となり毘沙門堂で私塾「多聞塾」を開きます。当時としては最先端の学問を教えた活文に吸い寄せられるように集まり弟子は千人をこえ、多くの人が学びました。

その中に近代国家の創設に身命をささげ大活躍をした幕末の志士、佐久間象山や赤松小三郎、それに高井鴻山、山寺常山、竹内八十吉(彫刻家)といった文化人がいます。赤松小三郎(上田藩士 京都で薩摩藩士に暗殺される )は、オランダ語と英語に堪能で、京都薩摩藩邸で英国式兵法を講義し日本の軍隊の近代化の礎を作った人です。赤松小三郎の教え子に、日露戦争の英雄東郷平八郎がいます 高井鴻山は、維新後長野県を教育県にせよと最初に唱えた人です。信州小布施の豪商で維新前は葛飾北斎のスポンサーとなった人です。佐久間象山はご存知の通り吉田松陰 勝海舟 坂本竜馬 小林虎三郎等を教えています。その中の吉田松陰は後に「松下村塾」で伊藤博文や高杉晋作を教えたことで有名な人です。また小林虎三郎は後に「米百俵」で有名になる人です(小泉内閣当時の話題ですが覚えてますか?)弟子達は皆、教育が今後の日本の礎を築くと各地で教育の重要性を説いています

この様に活文禅師から始まった近代国家という思想教育が礎となり明治維新へと繋がるのです。またこの様な教育と教育への高い意識があったからこそアジアで唯一欧米列強に 植民地にされなかったとも言えます。

活文禅師恐るべしでしょう?たった1人の僧侶の教えが弟子から広がり、遂には明治維新という革命まで成し遂げたのです。しかしながら歴史の本にも出てこないし小説 伝記等もないので、知っている人は少ないと思います。昨今の幕末ブームで多くの人が感心を持っていると思い、この機会に歴史から消えている日本が誇る偉人 明治維新の陰の功労者の活文禅師を是非知って貰いたいと思います。

 

追記

オレ自身も祖母に「あんたの菩提寺は活文禅師が住職だった寺だ」と教えられなければ知らなかったのだ。しかしながら幕末・明治維新で活文禅師を取り上げる歴史書は殆ど無く檀家としては寂しい限りなんですね。もっともっと評価されても良いと思っています。

活文禅師が私塾「多聞塾」を開いた上田市は戦国時代 知将と知られた真田昌幸・幸村の居城があった場所です、天下を狙う徳川家康は2度戦いに敗れているのですがその2度とも真田に完敗しています。その辺の所はhttp://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ueda.htmlに詳しく載っています。

真田氏は昌幸 幸村は豊臣に味方し大坂夏の陣で敗戦し滅亡するのですが、幸村の兄 信之は徳川家四天王 重臣の本多忠勝の娘が妻だったため徳川方に味方した 徳川が天下を取った後 真田家は譜代大名として幕末まで松代が所領となった。幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。

しかし徳川がどうしても勝てなかった真田の松代藩から徳川に大政奉還をさせる道筋を作った活文禅師や佐久間象山が輩出されたのは不思議な因縁を感じる 結果徳川は真田に3度負けたことになるんじゃないか?

明治維新後日本の経済発展は主な輸出品の絹で外貨を稼いだわけだが、製糸産業の本拠地が真田の領地の上田市周辺なのもお知らせしたい よく知られている「ああ野麦峠」の舞台の岡谷市・諏訪市は工場があった場所であって、蚕の品種改良等の研究や製糸機械の開発、輸出関連は高い教育水準があった上田周辺によって成り立っていた。現在は信州大学繊維学部と上田蚕糸(蚕の卵 今でもほぼ100%)があり伝統は続いている。

上記の祖母は母方の人ですが、父方は戦国時代は真田藩士 徳川時代は庄屋&筆屋だったため活文禅師やその弟子に筆等を納めていたらしい。(亡父によれば佐久間象山の書などかなり所有していたらしいが、曾祖父が寺へ寄進したと話していた)現在オレが受け継いでいる古文書は元禄時代からの年貢米の領収書みたいな書き付けが多く資料的文献としては価値があるらしいが、金額的な価値は無いらしいです(残念)